選挙活動とクールビズ

えっと、さいきん「クールビズ」という新しい言葉がいろんな領域を闊歩しているようですね。そのクールビズ、政治家にもあてはまるのでしょうか?


今日の毎日新聞に、選挙候補者は演説をする際に、ネクタイをするべきかという記事がのっていました。*1


記事の中で、ある候補者が、「お願いをしているんだから白ワイシャツにネクタイで当然」というようなコメントをしていました。


いつから選挙は「お願い」になったのでしょうか?選挙カーが家のそばを通るたびに、ウグイス嬢の声で「○○です。がんばっております。どうぞ、よろしくおねがいいたします」耳を突きぬくたびに、ひれ伏している候補者の姿を見るたびに、げんなりするのはいつものこと。


げんなりする割には、そしてそんな感覚は日本のいろんなところに広がっているのに(選挙カーを前向きに「いい選挙方法だ!」と支持する人、あまりみかけませんよね?)、なんでいまでも、変わりなく、昔のままの形で、選挙運動が行われてるのでしょうか?明らかに、一般的な「うんざり感」は候補者たちに伝わってないか無視されているかのどちらか。


候補者たちを見定めるとき、所属の党を除いては、日本の政治家の選挙活動からは彼らの政策や政治的姿勢ってわかりにくいような気がします。例えば、ん年前に消費税導入が法案として上ったとき、いろんな候補者が「私は消費税反対です」って言って票かせぎをしていましたが、もちろん「私は消費税反対です」っていう人全員が同じ理由から反対してるわけじゃありませんよね。で、選挙運動中に、なぜこの人は消費税は必要だと思うのか、なぜこの人は反対なのか、って具体的な候補者たちの政治的地盤がまったくわからなかったのを覚えています。党の違いだって、50年体制の崩壊以来、不透明な状態が続いている中、それ自体では除法として不十分です。 


もちろん、「政党内または政権争いで、あの候補者は、あの政治家とつるんでるからこの法案に反対なんよ」とか、「選挙はしょせん最終的には政治家が私利私欲を肥やすのための茶番劇」といって、選挙活動、または政治活動を簡単にdismissすることはできるます。


が、そういうdismissalな態度だと、国会で何がおっこっても、どんな法案が通っても、文句言えないと思うんです。自分に直接都合が悪い法案が審議されるときだけ文句を言うのは無責任です。なぜなら、そんな議員や政治家が活動できるような環境を、部分的にでも、与えたのは、dissmissalな態度をとった個人にもあるべきで、自己中心的に「政治家は何をやってるんだ!」なんていうのは、そういった自分のinactionまたはignoranceに対して、まったく自己責任をとってないからです。


前置きが本題になってしまいましたが、選挙候補者のクールビズ
どっちだっていいんじゃないでしょうか? メディアも、そんなことに商店をあてて、一般市民のfocus of deliberationを政治課題からそらさずに、もっと各候補者の政治的スタンス、そしてその政治的活動の歴史、例えば、どんな法案に賛成して、どんな団体とどんな政治的活動をしてるか、などを考える場を提供できないのでしょうか。


選挙活動は、市民へに「お願い」ではなく、投票は、「恩」を政治家に着せる行為ではないはずです。選挙は、「私はこういう思想をもって、こういう政策がいいとおもいます」という場所で、投票は、その言説または論旨のsoundnessを国民の意思に照らしてはかるということではないのでしょうか。 なんで、土下座して市民からの票を「乞う」のでしょうか。


日本は最近猛暑だと聞きます。炎天下でワイシャツ・背広にネクタイじゃ、演説するほうも暑いでしょうが、見てるほうにとっても、あつくるしいです。ネクタイをしてる・してないなんて、候補者の政治的構想とは直接関係のないことから「あの候補者はいい・わるい」なんて判断するのは、そしてそんな判断を促すような言説は、彼らたちの言う意味で、もっとも政治的だ。