社会の窓

ひょんなことから通訳のお仕事が舞い込んできました。
某企業間の商談のお手伝いをすることになったのですが、業種が専門的な分野なため、前日は必至にそれぞれの会社の企業内容、製品、そして専門用語を勉強しました。 おかげで寝不足。 なんせ、世界中ビジネスマンたちは朝が早い。まさに「早起きは3文の徳」を実行している人たち。 今日のお仕事は朝7時から。 バスに乗ってダウンタウンに行くため外に出ると、まだ真っ暗。 スズメだってまだ起きてません。


お仕事は順調に終了。実際に依頼のあった通訳内容の範囲を超えるものだったのでちょっと戸惑うこともあったけれど、楽しいお仕事だった。 もともと私は翻訳のお仕事が多かったので、通訳は(あたりまえだけど)ぜんぜん違ったスキルが必要になるのね、といい勉強にりました。  


翻訳と通訳、どちらかといえば私がすきなのは、翻訳。辞書を調べたり、過去の翻訳を読んで文体を比較したり、語源を調べたり、そんなものすご〜く地味な作業が好きなのです。 けれど、私が向いているのは通訳だろうな、とやぱり今日も思いました。 私は根がマジメなので、性格的には翻訳向きではないと思うのです。どうしても翻訳するテクスト(文章)に対してマジメに向かいあってしまうので、翻訳に必要なある程度の象徴的暴力というか、訳者に可能な采配の範囲を自分で狭めてしまうのです。通訳の場合でももちろん似たようなジレンマはあると思うけれど、「時間」が私に選択の余地をあたえないので、通訳のお仕事のほうが性格的には私には向いているのだろうと、改めて実感。


こんなことを考えていると、「あ、やっぱり通訳・翻訳でご飯食べていこうかな」なんて気持ちが湧き上がってきます。


ここ数ヶ月、いろんな変化が自分の中にありました。その結果、いろんな形であたらしい可能性への道が開けたと言うか、その道へ行くためのたくさんの「ドア」が目の前に現れるようになりました。 今日の通訳のお仕事も、その「ドア」のひとつです。 ここでどの「ドア」をあけてどちらに向かっていくか、貪欲な私は「うぅむ・・・」と腕組みをしながら唸るのです。


いろんな可能性がみえてくると、やっぱり浮気心は芽生えるものですね。「ウフ♪」といってウインクを投げかけてくるステキな人を目の前に、家から半径500m以内の行動範囲のなかにいる奥さんや、きまったテンポで機械的に日々の労働をするサラリーマンのおとーさんたちが、ふらふら〜となる、そんな気持ちがよくわかる。 いろんな可能性が目の前に広がるのは、うれしいこと。一種の自信も私にあたえてくれるし、「新しいこと」はいつだってワクワクさせてくれる。 「このチャンスをのがしたら・・・」なんてみみっちぃというか貧乏臭い考えだって浮かんでくる。


そんな誘惑に中途半端に惑わされながらも、私が向かう先、自分の手であけたいと思うドアは、学術の世界なのです。博士論文はしんどいし、学術の世界はえらいことネジれてるけど、今は研究を一生懸命やることが自分にとって一番大切だな、と思うのです。私が翻訳に性格的には向いてないように、わたしは学術に向いていないのかもしれない。どちらもテクストに向かう作業だから。だけれど、博士論文を通して学術の楽しさも分かってきたし、これをもうちょっとやってみてどこまでいけるか、やるだけやってみたいのです。 


今から5年後に、学術の中で「自分の場所」をつくるための足がかりができてるかどうか。私は器用でないので、その5年後の「自分の場所」ためには、地味に自分を集中させるしかないのです。そして、三つ子の魂百まで。 私はとても頑固なので、一度じぶんでやりたいと思ったことは、やらないと気がすまないのです。 5年後に振り返って、その先の5年後をうまく想像できなかったら、またそのとき、今度は自分から誘惑されに「外」へ出かけていけばいいんだからね。


そんなことを考えさせてくれた今日の通訳のお仕事は、いろんな意味ですごくいい勉強になりました。また明日から博論を書くのが楽しみになりました。 


いやぁ、それにしても世の中は狭いですね。会議室で会った取引先相手の取締役の一人は、私の友人の知り合い。 アメリカと言えども、世間は狭し、ですな。