社会の窓

毎年たくさんの「博士」がアメリカでは生まれますが(多いといっても、博士号を持つ人はアメリカの人口の1%ぐらいだそうですが)、就職先はものすごく大雑把に振り分けると3つの就職先に分かれると思います。 


まず、一つ目が、この間おはなしした研究系の大学。 ベビー「博士」の大半は、ふたつ目のカテゴリ、教育系の大学に就職することになります。 三つ目は、一般企業や大学以外の研究・シンクタンク機関への就職(あ、政府関係の機関ってのもあるね)。もちろん、博士号をとる=大学の先生になるというわけではなく、これは研究分野によってものすごく幅があります。これは、日本でいうところの理系(アメリカには理系・文系の区別はありません)の分野では多いようです。 理論物理学で博士号をとったお友達はドイツの一般企業に就職しましたし、コンピューター・サイエンスを勉強しているお友達はNIH(National Institute of Health: 国立衛生研究所 日本の厚生省みたいなもんですかね)に就職を考えているようです。


ベビー・博士たちの中で、最初からR1(リサーチ・ワン)もしくはR2(リサーチ・ツー)レベルの大学にいける人は一握りです。いろいろ基準はありますが、いわゆる、大学院でのスーパー☆スター院生は、研究系の大学へ就職する確率が高いです。 ちなみに、私の大学院では、2,3年に一人、こういう「あったまえぇ〜&努力家」である生徒がおります。しかも、私が会ったスーパースターの人たち、みんなすっごくいい人(変人ではあるかもしれんが)。 こういう人たちが学術をひっぱっていくことは、いいことだ うむ。


残りのその他大勢の生徒たち(あたしね・笑)は、まず教育系の大学で就職して、それから論文を出版しながら研究系へステップ・アップしていくか、それが目標でないなら、教育系の大学で研究しながら教育ということに力を入れていくか、となります。 


もちろん、研究を目指すか、教育を目指すか、当たり前ですが個人的な選択なのでどっちがいいなんてことはありません。 大学院では、たまに中途半端に頭がいい(と思っている)ヤツが「研究(正確には出版)して学者はなんぼ」と思い込んで、教育系を目指す人を小バカにしたようなヤツがいます。 教育と研究を二律背反に考えるだけで、アホです。もちろん、まったく研究せずに「教育」という枠組みに逃げてるひともたくさんいますが、教育を目指すことで研究をしている人はたっくさんいます。 研究の形を論文出版という形で出すか、授業という実践の形で出すかの違いです。 研究系の大学に勤めている人しか尊敬しない、というひとは軽くシカトしておきましょう(笑) (学会に行ったら、けっこうこういう態度のひといるんだな・・・)


教育系大学では、論文出版よりも教室での授業の質や、生徒のための指導に重点がおかれます。 修士課程などの大学院を含む大学もありますが、学部中心の大学が教育系大学の多くを占めます。 私が就任する大学も学部のみで、大学院はありません。


教育系の大学では、研究の成果としての生徒からもらう先生の評価、Teaching Evaluation (ティーチング・エバリュエーション)がものすごく大切になってきます。 学校のシステムによって異なりますが、(1~5段階などの)数量系の評価と、生徒からのコメントの質量系の評価のふたつが主です。 学期末に生徒に匿名で評価してもらい、学期が終わったら、先生たちはこの評価に眼を通して、来学期の授業を改善するときの参考にします。 


この評価が封筒に入って届くと、いつもドキドキしながら開けるんだよね〜。 楽しみでもあり、恐いようでもあり(サド・マゾ的。笑) 先学期、修士課程に在籍する院生が、傷つくようなコメントが書いてあったんだろうね、オフィスで涙をこぼしてました。そんなときは、もちろんオフィス・メートの先輩院生たちが全員総出で「評価の解読法」を伝授しながら慰めるのです(笑) ここぞとばかりに皆で自分たちが今までにもらった「痛恨の一撃コメント」お互いにシェアしながら、笑い飛ばすの。 めげずにがんばれ〜


教育系の大学は生徒をとても大事にするので、先生に対する生徒の比率を低くすることで教育の質を上げることに力を注いでいます。 大講義室で授業をするのではなく、少人数のクラスで(15〜25人ぐらいかな)という形になります。大きな大学では生徒は人口化してしまって、個人として接してもらえる機会は少ないのだけれど、小さな教育系大学では、先生・生徒間の関係がもっと個人的で、密接したものになるようです。 


生徒が教授室にひっきりなしに来て質問したり、レポートのドラフトを見てもらったり、ちょっとおしゃべりしに来たり・・・・と生徒との交流がとても大事にされます。 ミネアポリス近郊にある私立大に勤める友人のマーティンは、学期末に生徒を招待して自宅でバーベキューしてます。 こうやって生徒一人一人と個人として接していくことによって、大講堂や大きな大学ではできない質の教育を目指すのが、教育系の大学のコアにあると思います。  


私は生徒との関係は、極度に密接したものはあまり好きではないのですが、院生として教えている間に、私の特技は個人の生徒の「ひっかかり・ポイント」(書き方のくせ、思考のパターンなど)をみつけることだと分かりました。 ミネソタのようなマンモス校では、生徒は簡単に人口の一部になっちゃって、伸びる子は一人で伸びていくけど、伸びない子はずっと停滞する。 この大学に入学するのは簡単なことではないようなので、きっと基礎の知的能力は高いはずなのに、3・4年生のクラスを教えてると、ギョッとすることが多い(「3年生で、この文章力か・・・」とか、「えぇ!それは高校生的な勉強の仕方だろう」とか。) 生徒も生徒で、大きな学校だから、同じ先生に二度あたるということも少ないし、先生にそんなに相手にされると思ってないので、自ら人口化していく傾向も。 


それは、勉強するという場では、決していいことではないなぁと思うのです。この研究系大学(R1)という制度的環境のなかで何ができるかな、と考えた結果、私の特技を利用することにしました。 学期末に、それぞれのクラスで生徒ひとり一人に、私の一口コメントを上げることにしました。「君は言葉に息を吹き込むのが上手。こういう本を読むと、君の隠喩の幅が広がっていくと思うよ」とか、「君の強みは、かけ離れたアイディアを繋ぐことだね。つなげたあと、どんな新しいことが見えるようなるかもっと詰めたら議論の技術が上がるよ」ってな風に。 先生って、大きな大学でも本当はもっと身近な存在で、生徒が思っているよりいろんなものが見えてるとおもうので、見えてることをそのまま言ってみてるだけですが。 


生徒たちからこの一口コメントうれしかった、ためになった、って聞いているうちに、わたしは教育系の大学のほうが向いているのかなぁと思い始めたわけです。 たしかに、授業やりながら、「ほー、いまの世代はこんな考え方するんだ」と知ったり考えたるすることは楽しい。 大学院も後半(つーか、崖っぷち)になって、やっと自分は何を勉強し足りてないか、なにを研究対象としているか、そんなことがやっと分かってきたばっかりなので、正直にいうと勉強するための環境がととのっている研究系の大学に行きたいなぁというのが本音です。 ただ、R1系の大学では、論文を発表・出版してなんぼなので、そのプレッシャーの下で生きていくことは、わたしにはできそうにありません(その前に、まだ研究者の卵とも呼べないような私は、謙遜なしに、R1系になんてまず行けねぇ)。 


やりたい仕事と、向いている仕事は、必ずしも同じではないし。


テレビの料理番組で、だれかが言ってました。
Cooking is like life: You gotta play with your strengths, not with your weaknesses. (料理は人生とおんなじようなもん。 特技で勝負しなきゃ) (←すいません、いい加減な訳で)


正直に、私はじぶんがどの程度まで生徒との密着度が許容範囲なのか分からないです。というのも、わたしのアメリカの大学経験は大学院からしかなく、しかもどちらも大きな研究系の大学だったので、教育系の大学がどういう経験であるのかイマイチはっきり分かってないのです。 けれど、特技を生かせるという意味ではきっと正しい選択をしたのだな、と思ってます。 


8月から新しい大学でのお仕事が始まったら、リアルタイムで実況中継をお届け予定です(笑)