社会の窓

美術部にいるお友達の先生が、今学期新しいプロジェクトをすることに。
プエルトリコ出身の彫刻家を招いて、美術製作を通して大学と地域コミュニティーをつなごうというもの。 7組の家庭に、2人組の生徒がそれぞれ担当となって週に1度会いに来ます。 5週間をとおして、2人の生徒はその家庭のひとたちとおしゃべりしたりしながら関係を築きながら、それをコンセプトとして美術作品を作るというもの。


この彫刻家の方と、担当の美術部の先生が、昨日の晩、うちに遊びに来ました。
彫刻家は(名前は、プロジェクトが終わってからの公開にします)、もとはニューヨークで社会福祉をされていたそう。 社会福祉は、人々の生活をTransform(変様)する仕事。 現在は、美術を通して人の生活をトランスフォームしたいのだそう。


彼曰く、
社会福祉の仕事をしてたときに、社会福祉というのは一定の構造で、その中にはたくさんの矛盾や間違いや不都合やいろんなものがはいってる。その構造の中にずっといると、その構造を超えた考え方ができなくなってくるんだ。 僕は、だからその構造の外にでたくって美術をはじめたわけ。 このプロジェクトを通して、僕は生徒たちに大学という構造を超えたところで、どんな美術的創造の可能性があるのかを探って、それを形あるものとして生産してほしと思ってるんだ』


『やっぱり学者はな・・・』なんて言い回しは、大学やアカデミアが組織であり、その枠を超えた行動様式がとれないから所以かもしれません。 それはどの世界にいても同じですが。


わたしはどちらかというと、いまここにあるもの、ここにある枠組みの中でどれだけの可能性があるかを探る傾向にあるので(ないものをないって嘆いてもつまんないし)、この『構造を超えた考え方ができなくなる』という言葉を、もう少し時間をかけて消化してみようかな、なんて思うのでした。