社会の窓

うちの大学の演劇部(ちゃんとした学部ですよ)の今学期の演目のひとつは、クラウド・ナイン。 70年代の後半にイギリスで、80年代にアメリカで公開された演劇です。


セックスの自由、同性愛、違う人種の間での性関係など、セクシュアリティを通してビクトリア朝(コロニアル時代)と、1980年代のロンドンとの二つの時代空間の間に蔓延する固定観念を問題化する、というものです。

クラウド・ナイン
http://www.weblio.jp/content/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%B3+%28%E6%BC%94%E5%8A%87%29


70年代・80年代にこの演劇がラディカルで斬新立ったのはよくわかるのだけれど、2009年のこの時代背景の中でそのラディカルさを出せてない、っていうのが今回の感想。


市民権運動・ウーマンリブが盛んだった時代と比べると、同性愛、違う人種での性愛、女性の性解放などのテーマそれ自体には、もうラディカルさは残っていません(もちろん問題が解決したわけではないのだけれど)。   


2009年のこのコンテクストにおいては、古く写るこういったテーマを新しく問題化する必要があって、プロデューサーの先生は、テーマのラディカルさ(南部だからそう思うのはしょうがないけれど)に頼りすぎのプロダクションでした。  


たとえば、この演劇の中で大切な部分は男性が女性を、白人が黒人を、大人が子供をと、アイデンティティの交換がパフォーマンスの中心にあります。


アイデンティティーがパフォーマティブであること事態も、もう新しい思想じゃない。


パフォーマティブアイデンティティの循環は、回転ドア式にぐるぐる回るのだけれど、その回転自体が、新しい時代背景の中では、たいした効果を生んでないようでした。   



次回のプロダクションに期待です。