社会の窓

プロフェッショナルな面でキョーレツなスタートをきった秋学期。パーソナルな部分でも考えることの多かった1年&秋学期でした。 


3月にお友達の旦那さんが亡くなったことは、私にとっては大きな出来事でした。


亡くなった彼とはそれほど親しかったわけではなかったのだけれど、奥さんの方(日本人)と仲良くしていたので、旦那さんが亡くなった後の彼女と接していることで、今まで経験したことのなかった自分の中にわきあがる感情に遭遇して戸惑うことががたくさん。 それは今でも続いています。


喪に服す人、愛する人を失った人へ対する人々の対応は千差万別。
『かわいそう!かわいそう!』とひたすら悲惨さを強調する人もいれば、『当面の生活はどうなの? お金大丈夫?』と実質的な人まで。 


その中で、私が聞いていてもっとも嫌だと思ったのは、


『○○さんは、ほんとにしっかりしてるわ! もしあたしだったら、きっとダメ!』 
『もしうちの▲▲が死んだら、と思うと! 何かできることある?』
『うちの旦那もさ、軍でどこそこに言ってるからさ、いつか・・・って思うとね。 あたし○○さんの気持ちわかるわ』


こういう類。
他人の不幸を自分に引き寄せて考えることによって、その不幸を自分に起こりうるかもしれない悲劇として趣味レーションすることで、結局は自分の旦那に対する愛を発酵させてるだけの人たち。 


眉をひそめたくなるような言葉も、決まり文句名お悔やみの言葉も、みんな、言うべき言葉が見つからないから言ってしまうわけで、不快でもその言葉を発する人たちをもちろん責めたりできません。 だって、言葉がないのですから。 


死にいく人を目の前にするとき、誰かがなくなったり、誰かが誰かを亡くしたとき、そこに適切な言葉はなく、唯々、力なくたちすく立ち尽くすことしかできない。 そして、『彼がいなくなってしまった』ということと生きていかなければならないお友達を見ていて、私にできることは、無力に立ち尽くすことだけだ、ということ。



他人の痛みを目の当たりにしながら、そこには、私には到底どうすることもできない距離。
目の前にいるのに。 何かをしてあげたいと思えば思うほど、どんどん遠ざかっていく、痛みを抱えた、絶対的な他者。 



他人の痛みを目撃することのつらさ。
なかなか自分のなかで消化することができずにいます。