社会の窓

数人の人が役割担当して書いたものを編纂しているものを英語ではアンソロジーというのだけれど、日本語ではなんていうのかな?
アメリカでは、編纂者が公募して内容を募るものもあれば、知り合いに話をもちかけて、ってのもあります。


3月ごろかな? カルメンちゃんから『こんな公募が出てるから、一緒に書かない?』って言われて一緒に提出した小論文があるのですが、




えと、ボツになって帰ってきました(がっびーん)



プロセスとしては

1.編纂者に『こんな内容を書く予定なんだけど?』ってプロポーザルがきて
(ここで、『んー趣旨にあわんけん、ごめーん』って反応もあり)


2.論文を書いて提出


3.編纂者が読んだ後、『このあたり、なおしたら?』って修正のコメントが来ます。
『ごめーん、これ、ちょっとダメかも』ってボツのお話はだいたいこの段階できます。


が、Biribiたちが出した編纂者のひとたち、自分たちで読まずに査読者へと。



ふーん、教育学部の人たちらしい動きよねーなんて言って待ってたら
アメリカでの教育学部については、いずれ。留学する価値のある場所ではありません)



なんと査読者5人も! ぶっ そりゃ時間かかるわ。



そして、びっくりすることに、『他の著者の論文査読してくれる?』って。  




えええええ?!?!?!?!
それって、自分の競争相手の評価するってこと? 
おかしくなか?




帰ってきた査読の評価は、5人のうち4人からかなり高い評価で、変更は最低限ですむかんじ。
でも、この時点で出版の約束はなし。 おかしいなぁ。
ちなみに、残りの1人の査読者は編纂本の読者の想定範囲が公募にあったのと違ってて、そのせいかすごく的の外れた批評がたくさん。



言われたとおり変更して、再提出したら。




『ごめーん、編纂の中に入れられんわー』って。






ぶっ  なんじゃそりゃ?




5人の査読の評価、関係ないんだ!




内輪で誰をとるか、決まってたのかなー



そんなこんなしてる間に、別の小論文が学術雑誌にのることに。 うふ♪
美術館の展示を議論としてではなくて、ブレヒトのいうエピック・シアターととらえたら、倫理的可能性が広がるのではって内容。



いまからダッシュで会議に出てきます! ぶー