ラムネ

朝おそめにごそごそと起き出し、シャワーをあびて身支度を整えているとき、鏡で自分の顔をまじまじとみつめる。なんとなく、顔の雰囲気が違うような・・・。こう、目のあたりとかが、うっすら乾燥して見えたり、小じわが前よりはっきりしているよう。 微妙に自分の顔が変化していってることに気付く。


私はとくに外見における「若さ」に関しては執着してない(ほうだと思う)。アメリカにきてからメークをすることもほとんど無くなったし、白髪がここ最近増えても、とくに髪を染めたり、抜いたりしたことはない。(髪はもともと茶色いほうだからオシャレのために染めたいと思うことがなかったし、白髪も自分の一部なので大切にしてやろうと思うし)。


顔の微妙は変化は、私の視線を手に移した。
手にしわが増えてきたなぁと思う。「手はその人の人生がでるから」といって手を大事にするようにいったのは、だれだっただろう。祖母だったかな。しわが増えるということは、苦労が多いことだと、その人は言っていたような記憶がある。私も苦労が増えたのだろうか? 私が今の生活の苦労を感じる前に、手が、それを示しているのか。


苦労する・しないは別として、身体に現れてくる時間や歴史は、これからそれらとどう付き合っていこうかと考えると想像がふくらむ。私はいま31歳。年取ってもいないけど、若くも無い。まだたいしたこと成し遂げてはないけど、これから何かを作り上げていくこともできるし、新しいことを始める可能性も持っている。顔のしわやあたまの白髪と一緒に、次の10年間、40歳までどんな年のとり方ができるだろう。


夏に日本へ帰ったとき、母が立ち上がって、庭の花を眺めていた。すこしだけまがってきたように見える腰の後ろに両手をあわせている彼女のすがたは、必ずしも祖母のイメージとは重ならないけど、なぜか「手はその人の人生がでるから」という言葉を思い出させた。 母が、祖母とは違った人生を歩んだように、私も、アメリカという場所で、生活を始めた。そして、その年月は、日本食スーパーで買って飲んだラムネが、日本で飲んだときのそれとはどことなくなぜか違っている、そんな感覚なのかもしれない。そして、感覚の先には、何がひらけているのだろう。 


博士論文を書いていると、いろんな思惑、疑心暗鬼、野心、猜疑心、等々が交錯する。わたしは、この論文から、どこへ行けるだろうか? いま、少しずつ、やっと見え始めた自分の研究の対象と形、それを妥協することなく、精一杯追いかけられるだろうか。 


10年後に飲むラムネは、どんな味がするのだろう。