社会の窓
きょうは母の日ですね。
おっちょこちょいの私はフライングして昨日(土曜日)に母にメールをだしてしまいました。
両親に「ありがとう」というのは、どうしていつも、こう、こそばゆいというか、むづかしいのでしょうね。 彼らに向かって感謝の気持ちを述べることを考えるときはいつでも私を、10代の青年期にさしかかった子供のような、わけのわからない反抗期のときのような、中途半端な「照れ」みたいな気持ちにします。いつまでも両親に対してだけは素直になれず、かっこつけようとするのは、彼らにはどうやったって頭があがらない、ということを、知っているからなのでしょうか。
母の日に贈る言葉として、「注文の多い料理店」への序文として宮沢賢治が大正12年に書いた文章を、青空文庫さんからお借りして、掲載します。
わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗(らしや)や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。
わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹(にじ)や月あかりからもらつてきたのです。
ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。
青空文庫掲載、宮沢賢治、注文の多い料理店 序
(http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43735_17908.html)
母からは「すきとほつたほんとうのたべもの」をたくさん与えられて、わたしはいまの私になりました。
それは、すごくしあわせなことです。
ありがとう。