社会の窓

先日ドイツから帰ってきた友人。実家がシカゴ郊外のエルムハ-ストというところなので、7月に会って以来1ヵ月半ちょっと。今日はその彼女がふたたびミネアポリスへ遊びに来たので、お出かけ。 


ミネアポリスは、隣接するセント・ポールという都市と一緒に「双子の都市」として扱われるのが常なのですが(だからプロ野球チームも『ミネソタ・ツインズ』)、そのセント・ポールとの街境にあるカフェ『カップケーキ』というところに今日は行ってきました。 


ちなみに、ミネソタの州都はミネアポリスではなく、セント・ポール。ここからビジネス関連の機能がミネアポリスに移動・発展して別の都市を形成したのです。ミシシッピ川を隔てて、セント・ポールには政府・行政関連、ミネアポリスには商・ビジネス関連と分かれて、双子都市として活動しています。


カップケーキ』はここ最近あたらしくできたカフェで、名前どおりいろんな種類のカップケーキ(マフィンみたいなもんに、ごっつり甘いアイシングがごぉってり鎮座まされている脅威の食べ物。ビバ☆糖尿病!)がたくさん。コロコロ太ったアメリカ人も、たくさん。 パンも自家製で焼いていて、サンドイッチなんかもおいしいのだ。 

Cup Cake Cafe
http://www.cup-cake.com/
是非ポチっとクリック。これ以上にない男らしく潔いホームページが ばば〜〜〜〜〜ん!と表れます(笑)


私はBLT(ベーコン・レタス・トマト)のサンドイッチとアールグレイの紅茶。ベジタリアンのジェーンはりんごとブリ−・チーズのサンドイッチとピーナッツ・バターのカップケーキ。 


彼女は修士を終えた後、フルブライト奨学金でドイツで英語の先生を1年して帰ってきたばかり。帰国以来、彼女の就職活動の経過、ふたたび自国の文化におちつくこと、新しくまた生活のパターンを築くこと、自分が今いる空間の一部になることについて、彼女なりに大変なこと、などなどをおしゃべり。 


彼女の話を聞きながら思うのです。アメリカ人は、なんでもかんでもドラマチックだなぁ、と。 私は大学で異文化コミュニケーションのクラスを担当しているのだけれど(←ビミョ−に専門外)、1学期または1年間の交換留学で海外から帰ってきた生徒たちと、ジェーンの話は、そうかけ離れてないのです。 帰ってきてみると、なんだかよくわからないけれど、いままでふつうだったものからの疎外感があって、それが何なのか、どこからくるのか、そしてその疎外感に対してどう対応していいのか、そういうことを一生懸命模索しているようにみえます。


私が異文化コミュニケーションを教えるきっかけになったのは、学部側の「きみは留学生だから、異文化コミュニケーションとか留学の話とか、そういうこと、わかるやろ」という、リッパなリサーチ機関とは思えないようないいかげんな理由からなのだけれど(経験があるということと、研究対象にする、ということは同じではない!ドン!←机たたいてる)、そのクラスを教えるたびに、そんな疎外感と必至になって生きている生徒たちに会うのです。 


そして、わたしには、どうしていいか分からないのです。 私に、答えや、アドバイスなんて、できないのです。
目の前にいる友達にも、「ひとそれぞれやしねぇ」とか、「その疎外感ややる気のなさが湧き上がるたびに、なんでだろ?どこからくるんやろ?って考え続けるか、あんまり考えずに毎日忙しくするか、どっちかしかないんやないかな」と、ものすごーーーーーーーーくありきたりのことしか いえないのです。


帰国すると絶対と言っていいほど、「自分の価値」が分からなくなってきます。ヘンな自信はあるけれど、それが薄っぺらだってことは、本人が一番知っている。言い方を変えると、自分の価値が一転して可視化する。 それまで周りにあって、自分の価値についてあまり考えさせてくれなかったものがなくなって、突然目の前に「自分」または「自分の価値」が問題として現れて、それに圧倒される感覚。きっとそれは、就職活動をし始めたときの友人たちに、似ていると思う。そして、その薄っぺらになってしまた様な気がする自分の価値、あるいは、自分の薄っぺらさを見てしまったとき。虚無感・脱力感・焦燥感・エトセトラ。 


そこから見える「外」に出て行くためには、本人の実践活動しか、ないと思うのですよ。就職活動して「自分に悩む」ひとは、ひたさら就職活動しつづけるしかない。帰国して自分の『居場所』がわからなくなった人は、「いままでの場所や友達」を訪ね続けるしかない。でも、その「就職活動」や「戻る」という実践行為が、不確定な悩みを投げかけているのだったら、その悩みはその実践行為の範疇でしか存在しない。逆にいうと、その実践行為の中にしか、悩みの解決法も存在しない、と思うのです。悩みとか問題ってのは、解決法がまずあって、それをおもむろに軟膏のように悩みに塗って、「うむ。これで、解決じゃ」というわけにはいかないから、悩みの解決策なんてのは、細切れに、なにかをやっている間に、チラリと見えてくるものじゃないのかな。 だから、とにかく悩みを生んだ実践行為をおし進めていけば、悩み自体は消えなくても、ちょっと違う視界が開けてくるものだと思うのです。


潤んだ目をした友達を前にして、わたしは共感も理解もできないけれど、そんなことを伝えたいと一生懸命なのです。


2度日本を出た私の「2度目」はまだ終わっていず、そしてそれは「帰国」という形で終わらないこと、つまり、「わたしは日本に帰ることがないかもしれない」と考えたとき、違った方向から、目の前にいる友人と同じような「問題」が、私の前に表れるました。 「私の」問題として。


だから、それでも、共感しえないのです。 
それだけが、友達のありかたではないと、思うのです。

                • -

(後半、ちとムツカシイ書き方になってしまいましたね。ごめんなさい。私も書きながら考えてるので、そのうちもっとすっきりとした言葉で書けるようにがんばりまっす!)。

                • -