社会の窓

学期末のこと。
先日も書いたように、学期末は先生も生徒も忙しくってちょっとピリピリ。先日ひとり生徒を泣かせたあと、もうひとり泣かせてしまいました。


この日の生徒はレイチェルちゃん。今学期最後の小論文の成績がB(良)だったのにのけぞって、ものすごい剣幕で抗議しに来ました。 


Biribi:「・・・書き直しの機会がほしいっていうんだったら、それは一理あるから考えるけど?」
レイチェル:「それは考え中。でも、ここ、説明してないってコメント書いて歩けど、あたしやれって言われたこと、ぜんぶやってるわよ」


B:「あー、ここね。 まず、この『肥満は社会問題だ』て言うためには、どう個人ではなく『社会』の問題かってのを、順を追って説明しないと、『社会問題』とは言えないのよね。例えば・・・」
R:「だから、ここの1ページ目と2ページ目でそれは書いてるって!」


B:「ここは、どうアメリカとフランスの文化が違うかってことを書いてるけど、『文化の差異=社会問題』では、ないよね? だから、文化の違いが、どんなふうに社会問題化するか、ってのを例をつかってまず描かないといけな・・・・」
R:「だから、ここに書いてあるじゃん。フランスの人は食事に対してこういう態度で・・・・」
B:「それは、差異の描写で、個人の実践であって、それが社会にどう繋がるのか、この後半が足りないのね。そうじゃないと、『アメリカの肥満は社会問題だ。なぜなら、アメリカはフランス文化じゃないからだ』なんて飛躍した議論になるのよね。それを避けるために・・・・」
R:「もういい!」


・・・・・泣きながら走り去られました(脱力)


とくに州立などの大きい学校(小さい私立でもそうなのかな?)では、いわゆる成績のインフレというものが問題としてあります。 学費がつりあがるにつれて、生徒の消費者意識というのも上がり、「お金払ってるからいい成績もらえて当然」という態度を持つ生徒が結構います。それに加えて、先生たちも生徒に文句言われたり、学ぶためではなく、いい成績(A)をもらうために文句を言いに来る生徒がウザいので、けっこう簡単にいい成績を上げてしまうという悪循環は、もう長いこといろんな大学で蔓延しています。


たしかに、生徒たちは州立とは思えないような高い金額をはらって大学にきて、ものすごい数のクラスを履修してかつバイトして、と大学院生からしてみれば考えられないような忙しさの毎日を送らざるを得ません。 そのなかで、生徒たちは「考える」時間というのはあまりなく、いかにたくさんのタスクを効率よく片付けていくか、と言うことに集中します。 だから、宿題でも、何を求められていて、どういう風に取り組めばいいか、細かい指導を求めてきます。 小論文なんて、自分の意見をきちんと構成して論を展開するものなのに、細かいガイドラインを出せば出すほど、私が彼らの小論文を書いてあげている、なんてことに実質なってきます。でも、そんな細かい規律がないと、生徒たちは不安になるのです。


泣きながら走り去ったレイチェル嬢も、そんなひとり。細かいガイドラインを出せば出すほど、それに従えばいい成績がもらえるという、変な安心感が生まれる。言い換えると、言われたことさえ小論文に取り込んでおけば、悪い成績をとるなんてありえない、てなロジックに置き換えられるのです。 成績インフレの中、いい成績をもらうためのスキルを上げていくことに専念して、Aをもらうことになれた生徒にとって、Bをもらうと言うことは、不可をもらったようなダメージをくらうのです。 ふんとに、なんか間違ってねーか?


そんな生徒に「考える」宿題を出すと、たいがい私が授業で言ったことが再生産されて帰ってきます。彼らの小論文なのに、聞こえてくるのは私の声。 あ〜 気持ち悪ぅ! 先生の言ったことを書いておけば、悪い点数をつけられるはずがない、というしたたかな根性丸出しです。 レイチェルちゃんは、その代表的な存在です。 


そんな子とは、成績について話をしても、たいてい平行線で終わります。成績のために苦情を言いにくるだけで、決して何かを学ぼうとか、自分の知識や論文を書くためのスキルを上げるために着てないので、「ここをこうすれば、こういう風に前提になってるものが見えてくるから論の展開がスムーズになって・・・」と、どんなに丁寧に説明しても、馬耳東風。 


こんなに近くに座っている人に、言葉が届かないなんて! 


どこのカフェもコーヒーショップもたくさんの人たちでにぎわっているけれど、そのだれもが携帯で「その場にいないだれか」としか話をしない、身体的な距離がまったく意味をなさない空間。 自分のオフィスが、街角のカフェの一部になってしまったような気がしました。