社会の窓

ベルリン最終日の今日は、お昼にディーターに会えそうです。
また次に会うことのない人に『またね』って、どうやって伝えればいいんだろう。飛行機に飛び乗ったときから何度も考えた質問を、ガムをかみ続けるように、また自分に問うてみます。




ビリビ
『ベンツだから許してあげるけど、日本車に乗ってないって、どーよ?!』

ディーター 『はっはっはっ Rav4がいいなぁと思ってずっと目をつけてるんだけどなぁ。あれはパーフェクトなんだが、唯一の欠点が足元さ。あとほんの2,3センチ足元にスペースがあったらいいんだがなぁ。ほんの、2、3センチでいいんだがなぁ。(ディーターは185センチで、体もでっかい)』

ビリビ『・・・・・・・・ディター、靴脱いで乗れば? いっそのこと、日本人みたいにさ(笑)』

ディター『ぶっ(笑) そりゃいい!!』


今日のディターは、5日前に会ったときよりもちょっとしんどそう。時々目を閉じたり、息が上がるのがはやかったり。それでも、生きることを楽しむ姿勢というのはたくさん。 今日も英語の文法についてダーリンに質問したり、『どうだ、オレのフサフサの髪は』とハゲた頭をなでなで。


前回と同じように、ディターとおしゃべりした後はロビーにでてママとディターのパートナー、ベアベルさんとカプチーノ。 ベアベルさんが、がん細胞が運動神経に転移していること、お医者さんが生命維持のための処置をすることをやめたこと、栄養はディターがとる少しのスープからだけということ、今はディーターのためのホスピスを探していることを話してくれました。 さすがに、ホスピス探しはベアベルさんにとってとてもつらいようで、くっ くっ と 涙を懸命にこらえています。 


カプチーノの後、またディターの部屋に行くことを予定していた私たち。5日前に来たときもそうしたので、てっきり「さよなら」をいう機会があると思っていたのだけれど、ベアベルさんに促されるまま、そのまま病院を後にすることに。 



『最後』がなかった、ディーターとの再会。尻切れトンボのような、なんともいえない曖昧な気持ちを抱えたまま、ヴァイドゥラー家へ向かいます。 今日も家族みんな6人そろって晩御飯。ロールキャベツだ!(←大好き)



晩御飯ができる間、リビングでダーリンと本を読んでいたら、パパがやってきました。
『ベルリンまで来てくれて本当にありがとう。ディーターのためにもとても、そしてママのためにも、来てくれてとてもよかった。ママはもう、精神的にまいってたんだけどね、君らがきてくれて、精神安定剤になったみたいなんだ。 ディターのことも、ママのことも、大切にしてくれてどうもありがとう。来てくれて、本当にうれしいよ。』 と、涙をポロポロ流しながら、私たちの手を握って言うのです。 ビリビ、ダーリン、号泣。 


いろんな事情から(そのことは別の機会にでも)私はパパあてに手紙を3ヶ月に1度の割合でいままで書いているのですが、『ビリビちゃん、君はほんとうに僕によくしてくれてるね。こんなふうに人から暖かく好かれたことはないよ。どうもありがとうね、ありがとうね』と言われて、ビリビ再び号泣。 


いっつも大事にしてくれて、あたしたちのほうこそ、ありがとうなのに。


そんなこんなしてる間に、ミシャとジェニちゃんが仕事帰りに到着。笑い涙のままロールキャベツにせっせとみんなで向かったあと、やっとディターのフラットに戻ったのが12時半。 


ディターに『最後に会えなかったこと』をダーリンとお風呂に入りながら考えてみる。 


なんだか中途半端なかんじで病院をでてきたけれど、『終止符』を打つために私たちはきたんだろうか? なにか完結しないふやふや感はあるのだけれど、人の最期と向かうということは、オープン・エンドな形もあるのかな。 ここでディーターと私たちの関係が途絶える、終わるのではなくって、ここからあたらいい形の関係が生まれるだけのことで。 もちろん生身の体があるとないでは違うのだけれど、それでもディターが私たちの及ぼす影響は、形をかえて続くわけで。終わりを探したり、終止符を打つことに躍起になることもないのかな。 気負った『またね』はなくてもいいのかもな。


支離滅裂にいろんなことを考えながら、翌日の出発のための荷物をまとめるのです。