社会の窓

今日の夕方、仲良しのお友達からでんわがありまして。
旦那さんが喘息の発作で救急車ではこばれたから、娘さんを学校に迎えに行ってくれと。 前の発作のときに娘さんはかなり心配してたから、2,3時間一緒にすごしてね、って。 


ヘンゼルと娘さんと、3にんでスポーツ用品店にいって、ヘンゼルのサッカーボールをかっているときに電話。旦那さん、ダメだったんだって。 でも、娘さんとほかの子供たちには自分で伝えたいから、だまってておいてねって。 


アイスクリームを食べにいって、バンパイアの映画のはなしして、ドーナツ買って、彼女の弟ふたりを預かってくれているご近所さんの家へおじゃましに。  このご近所さん、ヘンゼルの同僚の哲学の先生。 



ビデオゲームしたり、おしゃべりしたり。 
ほんとうは、この子達のお父さんはもう亡くなってしまっているのに、まだ知らされてない彼らにとって、お父さんはまだ普通にいきているのですよ。その場にいなくても。 


二つの時空空間をまたいでるみたいで、気持ち悪いのです。 



悲しい知らせは、まだ現実味がないのです。 自分がテフロン加工のフライパンになったみたいに、つるんと滑ってどっかにいってしまいます。  



お友達が病院から帰ってきたところで、子供3人をつれて彼女の家に送り届けてきました。



訃報というのは、静かなのですね。
子供たちが大きな声で泣いたり叫んだりしてくれたら。そしたら。 
でも、みんな、それぞれ一人でじっと鼻をすすってるだけなの。 静かに、静かに、現実味のない知らせを前に、恐怖と戦っているのか、非現実感の上をすべっているのか。  7歳、10歳、13歳、と16歳。 みんな静かに何かを見つめてるのです。