社会の窓

家族全員でモーレツに寝不足な週末。
熱が下がって体が楽になったんでしょうね。 ファビアンも爆睡モード。今朝は10時半まで、みんな朝寝坊。  


あぁぁぁぁ神様仏様ご先祖様、いっぱい寝させてくれてありがとう!
ファビ、早起きせずにいてくれて ありがとう!
天国!極楽! 生き返った〜〜〜〜〜〜〜♪



久しぶりに寝たよ。まじで。


どんなに仕事がたまってても、睡眠が足りてると人間、前向きに問題に取り組めるもんだね。
明日の授業の準備をしていても、『あぁぁあぁ ここまでしかできない(焦)』ってのと、『ま、このあたりまででいっか』じゃぁ、ぜんぜん違う!  


この例も、あの文献のコピーも、といろんなプリントを渡したいのだけれど、全部準備をするのはムリ。 それでもとりあえず明日の講義の準備はいつもより早く終わりました。 これを書いている今、1時過ぎ! いつもより1時間以上早い! 


サービス精神旺盛にいろいろ盛り込むのは悪い姿勢じゃないけれど、今の学校で教え始めてから、ひとつの宿題や講義に対して、『今日はこれを分かってほしい』というものもひとつに絞ることが大事なことに気がつきました。カモノハシ先生もそうアドバイスしてくれていたので、先学期から徐々に実践に移そうとがんばっているのだけれど。 徐々に新しい考え方や研究の仕方を消化していけるように指導するって、準備にめっちゃ時間がかかるね!  


講義するだけだったら楽だけれど、それじゃ生徒が学ぶチャンネルを『聞く』行為に限って、結果的にクラスを情報を消費すう場にしてしまうし(そしたら期末試験に、私が言った言葉をそのまま再現するばっかりの生徒ばかりになるし)、クラスが地の生産の場であるためには、開きのある能動的な場でないとだめなわけで(ソクラテス的な教育方法がが必ずしも生産的であるとは思わないけれど)。 


どんな形で生徒が能動的に参加することのできる場にするのか、試行錯誤であります。


その中で、教科書を読んでこない生徒たちをどういう位置づけで扱うかも課題です。
教科書読んでこない生徒なんて置き去りにするべき、という先生もたくさんいるし、その気持ちはよく分かる。


ただ、Biribiは学部生のころは教科書、やっぱり読まなかったわけで。
だからといって興味がなかったわけじゃなく、教科書は読まなくっても証券取引法とかの授業は楽しい!って思いながら出席したのを覚えているし。 


自分の経験からみても、教科書を全員がきちんと読んでくるのを前提にクラスをすすめるのは理想的だけれど、具体的に生徒の中に根をはるような知的生産の経験を与えるにはムリのある前提なんじゃないかと思うのです。


んなわけで、毎晩遅くまで次の日の授業の準備をしています。
今日も明日も、自転車操業(笑)