社会の窓

ここ最近、「いじめ」が再び社会問題化していますね。再び、というのは、80年代にもいちどいじめが社会問題としてものすごく盛り上がって、子供の自殺が相次いだのを思い出させるからです。 


思うに、80年代の音楽のリバイバルにもみられるように、時代の繰り返しが起こっている。それは、単なる「時代は繰り返す」ということではなくて、過去が未来になっているのです。 柄谷行人氏をとりかかりにして、大澤真幸氏がうまくこの時間性の表れを『戦後思想の空間』の中で表現されています。「戦後」という現在は、「戦前」なのだと。 「いじめ」はその時間性の兆候だとわたしは思っています。(ちなみに、私は博士論文でこの時間性を、これまた再び浮上した「従軍慰安婦問題」のマテリアリティとして扱いながら、日本の国家のエートス(Ethos)の歴史化を試みてます)


いじめが問題になると、どういうことが起きるか。どこか足りないオトナたちは、「いじめ」という現象をよく考えないまま、また自分たちの持っている権力やおかれている主体的位置を考えずして、わけのわからない新たな文化政策をはじめたりするわけです。 飯野賢治氏が(ファンです!)、ご自身のブログでとてもよい記事を書かれています。  

eno blog
http://blog.neoteny.com/eno/

いろんな生活のアリーナで「倫理」や「道徳」が叫ばれるとき、私たちは新たなルールをつくればいいと思ってしまう。そんなコンテクストではルールをつくることは、アプリオリにいいことだと思ってしまう。だけれど、本当に考えなければいけないのは、どのように、そしてどの程度、そのルールが「倫理」や「道徳」という言葉に乗って、私たちの生活の隅々まで入り込んできて、私たちの生活を、「わたし」を、「わたしたちのもの」たらしめるかということ。 倫理とか道徳という言葉に、そんなにオープンでいいのかしら。 


あたらしい文化政策たちは、わたしたちを「いじめ」と戦う戦士にしてしまう。倫理的に、道徳的なものに私たちの身体をオープンすればするほど、生活の隅々にまでそれは浸透して、毎日がプログラムされていく。道徳的なことは、一部の人のボランティア活動なんかじゃなくって、毎日の生活そのものが倫理の場になる。 その倫理は他人のためであったり、自分のためであったり。実際、その区別がつけられなくなる。 戦士として、正義のためにたたかうスローライフやエコ・ライフ。「自分にいいこと」はまさに、ライフ・ワークとなっていく。 そこでは仕事とプライベートの差なんてものはなく、ただただ『癒し』を欲する身体があるのみ。 戦うことそのものが『癒し』と変換されていく。 


大澤真幸氏が言うように、現在は「戦前」であるならば、私たちは『癒し』の戦いを繰り広げているのです。「いじめ」を機に打ち出されていく文化政策は、私たちを癒しの戦士にしていくための、私たちを過去という未来に参加させるためのテクノロジー。 この過去への参加、そして戦いという癒しは、決してシンボリックなものではないのです。