社会の窓
ただいまいつものDunn Brosにて鋭意お仕事してるフリ。学会行ったりなんたりで間があいたので、なんだか博論のペース乱れまくり。何かいてるのかわかんなくなってきたよ、ったく。 現実逃避のために講義の準備や採点なんてやってみる(あぁ悲しき二者択一)。
そこへ、高校生の男の子が現れ、それぞれのテーブルで何か言っている。
「失礼します。○○高校のバスケ部の、●●です。これからXXXという選手権にでるのですけれど、チームの旅費やユニフォーム代を捻出するために、募金を募っています。小額でもいいですので、募金をしてくれませんか」
アメリカに来たばっかりのころは、楽してお小遣あつめるなら、もっと上手なウソつけよ。なんてことも思ったのですが、これは珍しくない日常の一コマです。 アメリカの公立学校の予算は、どの学校も同額ふりわけられるというわけではなく、その学校の土地の地価(もっと詳しく言うと地税率)によって、州政府からの予算配分が変わってきます。もちろんそれだけではないけれど、土地の価値が予算配分に関与するというのは、日本ではありえない考えだと思うのですが、どうでしょ?
予算がそのように配分されるということは、お金持ちの学校にはたくさん予算がいって、そうでない学校は貧乏な学校のまま。 その土地の区切り方はもちろん人種化されていて、ダウンタウンのような街中の学校は主に黒人で経済的に豊かでない生徒たちが、少ない予算で限られたリソースの中で教育を受ける。 反対に、おリッチな郊外の学校では、予算もたくさんあるから課外授業に力を入れる余裕がある。だから、マーチングバンドのためにいい先生を雇ったり、フットボールのチームを遠征に出したりできる。
だから、キットカットなんかのチョコの箱を手にして、「チョコかってください。○○小学校で▲▲の活動に使います」なんて光景もある。
今日、バスケ部のための募金に来た男の子も、黒人。 教育という機関は、こんな形でも経済層の人種化に参加しているのだ。 そこでいくら人種間の平等とか均衡とかを叫んでも、構造的にそうなってるんだから、意味がないよね。
残念なことに私は現金をまったく持ち合わせていなかったので(所持現金、78セント!)、バスケ部の彼のお役には立てなかったけれど、こんな場面に合うたびに「なんだかなぁ」と思わずにはいられないです。