社会の窓

「日本語がどんどん下手になっていく・・・・・」 


海外に住んでいる人たちの間ではよくある悩み(?)ですね。かっこよく聞こえそうでもありますが、実際かっこよくなんてありません。「日本語がどんどん下手になっていく・・・」の後には、「英語(もしくは在住地の言葉)もちゃんとできないのに・・・」と(よく隠された)言葉が続くのです。 


その昔、金城武が5言語を話せるとコスモポリタンなスターてなイメージでインタビューを受けていたのを思い出すます。 たしか、こんなかんじでした。


インタビューアー:「それにしても、北京語、英語、日本語、広東語、(もひとつ、忘れた)と、五つもの言葉を話せるなんて、すごいですね」
金城武:「そんなことないです。どの言葉でも僕はパーフェクトに話せない。どれも中途半端。」


この記事を読んだ当時は、「オレはいつだって未完全」みたいなこの雰囲気を、かっこぇぇ〜! こういうのを「アンニュイ」っつーのか?! なんて思ったりもしたもんです。


が、少なからず当事者になってみると、ちっともかっこいくねぇ。
昨日の記事のように、訃報を朗報と書くし(ったく、これから漢字使うのビビるってば・・・)、日本に帰ったときはお友達に「今、英語で考えながら日本語ではなしてる?」なんて指摘されるし。 学会に行ったときなんて・・・・・


日本から来ていた、とある先生。アメリカで長いこと研究されたあと、日本の大学で研究されている方がいらっしゃいました。他の研究者と集まってのお酒の席で完全に日本語の意味を間違えてつかってしまったワタクシ。何かの話から、「先生は高給取りですね」と言いたかったのに、「先生は 給料どろぼうですね」と言ってしまったのです。しかも、間違いにまったく気づかずに。 (自爆)



そのあと、ものすごい雷がおちてきたのは、言うまでもありません(泣)。


最初はなんで怒られてるのかわからずに、ちょっとポカ〜ンとしてましたが、ハッ!と気づいたら顔から火がファイヤーです。 (ここで、「日本語を間違えて使ってました」って説明しようとしたのに、説明させてくれなかったのは、ちと理不尽だとも思うが)


もちろん私は金城武のように複数の言語で同時に育ったわけではないので、常に母国語というか第一言語というものが、基礎にあります。どんなに漢字や文法を間違っても、日本語のネイティブであることを間違えられることはないので、そこが複数言語で育った人たちとのちがいだと思っています。 それでも、言葉と言葉の間のエア・ポケットに入っている感覚、ちっともかっこいくねぇ! アンニュイどころか、赤っ恥じゃぁ!!! 穴があったら入りてぇ〜!


どんなに自爆して恥かいても、複数の言葉の中で暮らすということについて、わたしは金城武の「未完全の哀しさ」みたいなものに共感しないのです。なぜかというと、それだけの言葉をはなせるということは、言葉のリミットの中でしか循環しないもの(アイディアでも、経験でも、商品でも)が、他の世界と連結する交錯点でありえると思うからです。 カッコいい人は「わたしは文化の掛け橋になりたい」とでもうところでしょう。(わたしは壮大なこといえませんよ、えぇ)。 そういう意味で、未知の可能性が生産される場としての「未完全」つーのは、それはそれでステキだと思うのです。 


自分に何かが「欠けてる」、「穴」を埋めて「完全」になりたい、というよりも、そのあいてる穴を通ったらその先に何があるやろ?、そこを通ったら何がどう変わるんだろ?って考えたほうが、楽しくないですか?