読書

読んだど。

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)


読んだあと、すこし、自分が老けたような気がしました。



1992年出版のようですが、あの時代にこれを読んだら響きかたがちがったのかな。 
自分に何かが『欠けている』、その喪失感が舞台として伸びたり縮んだりするのだけれど、それを肌で感じるには、私には距離感がありすぎたような気がします。 それは年代的なものと、自分が置かれている年齢的なもののせい。


非定型な『欠けたもの』を探し続けていくこと、『内面』というパラドックスにどんどんハマっていくこと、そういうことに共感するには、私はきっと歳をとりすぎていると思う。 彼が描いた90年代という時代はもうベタな形でしか今の空間になじまないし、アイデンティティー・クライシス(identity crisis) -- あたしがあたしであることって、どーいうこと? 僕というのは、何なんだろう、という問いに『飽きた』というほうが正解なのかもしれない。 きっと90年代には感じられたのかも知れない、何かが生まれそう躍動感や生き物がいるんじゃないかって可能性が触れてきたときにかんじる「ざわざわ」感が、そういう問いに見出せないというか。 



『どこまでが僕で、どこから僕じゃないのか、周りと僕の境目がわからないんだ』みたいなことを主人公はいうのだけれど、その境界線を『欠けたもの』としてみるか、そこにパワーを見いだすか。わたしは後者で、『欠けたもの』としての境界線を探すという行為にもう投資したくない。 きっと90年代に流行った自分探しの旅は、中途半端なオーガズムみたいなもんで、それが90年代的なもので、それを上手に描く村上春樹氏はすげぇ、といつもどうり関心しているのです。