社会の窓
今日はダーリンとは別行動。彼はパパとママと一緒に、結婚式の後のレセプション(食事会)の最期の打ち合わせに出かけていきました。 写真は、食事会をするレストランが入っている建物。 いかにもドイツってかんじですな。
レセプションのことはBiribiは基本的にノータッチ(ドイツ語もドイツの習慣もよくわかんないしね)。パパやママにお願いして仕切ってもらってます。
ダーリンが出かけている間、Biribiはちょびっとだけお仕事。 冬休み中とはいえど、来学期のクラスの準備や論文をすすめたりと、やることはけっこうあるのです(悲)
Biribiが教えている3科目のうちの一つは、コミュニケーション学入門のクラスです。 先学期つかったこのクラスの教科書は前任の先生が使っていたものを学部がそのままオーダーしたもので、私が選んだものではありません。 新しい学校で授業を一学期を通して少しだけ生徒と学部について学んだので、違う教科書を使おうかなと考えているところです。
今の学部でお仕事をして気がついたのは、生徒たちのコミュニケーションに関する知識は、教室の外では発揮されないということです。 生徒たちを見ていて、『コミュニケーションのことを理論的・批評的に考えることができるのなら(それを専攻としてクラスで学んでいるのなら)、そんな話し方はないんでね? そのメディアの理解は、浅すぎでねーの?』 とか思うことが多々あるのです。
コミュニケーションを『常識』で判断するか、それとも体系的に分析・評価できるか、の違いなのだけれど、う〜ん・・・・ いくらクラスで分析について『わかった』といっていても、それが教室の外で生かされないんだったら、意味ねぇ(がっくし)。 「親身になって耳を傾ければ、人種や階級や意見が違う他者を理解することができる」なんて、そのへんの道端に座ってるホームレスのおっちゃんからも笑われるよ、っつーの。
コミュニケーションに対する基本的な批評的姿勢が薄いというのは、生徒だけではなく研究者たちの間にも蔓延する病気なのですが、これをどう解決していくかというのが、新しい課題となりました。来学期から、この課題に取り組むという形で、それぞれの科目の授業を構成していることころです。