社会の窓

今日はお友達のおうちで一日、4人の子供と一緒にいることに。
お友達は葬儀屋さんの手配やらで忙しそう。 日本では葬儀屋さんがうちに来てくれるみたいだけれど、アメリカでは違うみたい。 こっちからフューネラル・ホーム(葬儀屋さん)に出向かうようです。 


朝のうちは、みんな低空飛行でメローな感じだったのだけれど、一緒にあそぶうちに元気がでてきた。 
7歳と10歳の二人は、ヘンゼルとWiiやったり裏庭で遊んだり。 16歳と13歳のふたりよりもずっと元気。 まだなくなったお父さんの遺体を見てないのから、現実感がないのかも。 


昨日は、留守番している間にいろんなひとが来てくれましたが、今日はさっぱり。 



ルーの奥さんである私のお友達からきいたところ:
以前通っていた教会の主から電話があって、できることがあれば、なんでも言ってくれとのこと。


亡くなったルーは、キリスト教の某宗派にしばらく通っていたのですが、身なりや服装など人の判断の基準を外見においたりするところや、宗派外の人とのおつきあいを拒む(禁止)するところなんかが嫌で、この宗派の通うのをやめてしばらくたっていました。



だから、お葬式もその宗派のやりかたではやらないと思うから、とくに今なにもお願いできることはない、とお伝えしたそうです。


今朝、電話でそう伝えたら、もう今日はだれも尋ねてこないのです。



そういう宗派でそういう信条を持っている人たちはそれでいいのです。 それで信仰している人たちが幸せなら、わたしはそれでいいと思うのです。


びっくりしたのは、宗教を通してつながったブラザーは、人としてのつながるブラザーじゃないことなのです。
宗教や学校や水商売や、どんな媒体を通してでも、付き合っているうちにそのうち媒体をこえるようなつながりなんてのができると思うんだけれど。


媒体を超えていくことをタブー視する



なんだかよくわからないです。
いろんなことが、消化できないでいます。


お友達は、忙しく、がんばっています。
ルーが作ったがんボスープの残りを冷蔵庫でみて、ぶわっと涙がでたり。


ルーの大学のことを思い出して、ぶわっ涙がでたり。 


保険の手配や葬儀の手配で、実務的なことをしながら踏ん張ってるかんじ。





他人の痛みを目撃しつづけるのはつらいです。 
言葉にできないなにかを、消化しきれずに、抱え込んでしまってます。