アメリカでも日本での震災の被害のニュースは、ハイチとかインド沖での災害の時とは比べ物にならないレベルの数がレポートされているのですが、それでも常に耳にはいってくるわけではありません。 (ニュースの頻度だけからでも、日本、ハイチ、その他の災害地域との政治的な位置関係がくっきり浮き彫りになることに対して、とても複雑な気持ちになってしまいます)。


今回じゃぱんに帰っている間、あたりまえですが津波原発についてのニュースに毎日触れることになりました。 



これだけ毎日いろんなニュースを聞いたり読んだりしていると、距離をいいことに、今までどれだけ自分が震災ことに対して考えないように、感じないように、ココロに蓋をしてきたのか実感することに。 


今回の震災は、いろんな人にとって、自分が思っていた以上に日本人であるということを感じさせた事件だったのではないでしょうか。  そして、震災とどう関係を持つべきなのか、直感的にそれが分かる人もいるようですし、私のようにココロにふたをしながら模索している人もたくさんいるのだ、とも見受けました。


突き上げてくる感情に対して素直になることを恐れながらも、毎日流れてくるニュースを聞いていると、怒り心頭なのです。 


あんなに災害があってもルーティング(窃盗とかが)おこらない日本はすばらしいとか、そんなマイ・カルチャー・イズ・ビューテホーなこといっててもしょうがないわけで。 被災地は、ルーティングを起こることすらできないぐらいの壊滅的状態なんじゃないでしょうか。 



復興のスピードとか、程度とか、ケアとか、もういろんな面で考えれば考えるほど怒りで涙が出てきそうな毎日でした。 国会答弁を聞いているだけで、頭でお湯が沸かせそうなくらい。  プシュー くらだない派閥争いとか勢力争いやってる政治家のバカヤロー 



たぶん、日本中の人たちが、自分たちでできる範囲で寄付とかしているんだと思います。 それは正しいしことなのだけれど、でも、それは復興に対しての姿勢としては、生ぬるいような気がするのです。 


たとえば、被災していない地域の会社が、2,3人づつ被災した人たちを雇ったら、どうでしょう?  大企業は被災地の人たちを10人づつぐらい採用したら、どうでしょう?  10年とか期限付きでもいいです。 被災地が復興するまでの期間、復興したらその土地でその企業の支店運営にまわすとか。 企業には、短期的な寄付以上に、長期的に人を養う許容量があるじゃないですか。 そういうこと、できないんだろうか? 


熊本では、熊本の木を使って何かの施設を被災地に作る、なんて企画が上がっていましたが、地元のPRを将来的にしたいという思いが見え見えですね。 いろんな思惑が交錯するのは当然ですが、それ以上のことができるように、それ以上のことを市町村や企業にやらせるように、一般の人たちはもっと厳しく、震災復興へのまなざしを持っていなければいけないのではないでしょうか。 


募金だって、「できるぶんだけ」ってのは、生ぬるいのではないでしょうか。



震災直後、糸井重里さんがどこかで、小さい金額じゃダメなんだ。 ものすごく大きい金額じゃなきゃだめなんだ。 自分ひとりを養えるぐらいの金額が必要なんです、と書かれていました。


その通りだと思います。
自分ひとりを養えるぐらいの金額に目標募金額を設定したら、どうでしょう?
それは、震災復興を通して、自分の価値を設定するということですから、『日本人である』ということが粉砕されて、なおかつむき出しにさらされてる今、『日本人であるということはどういうことなのか』を再構築するために個人一人ひとりが取り掛からなければいけない作業で、募金額を通して自分の価値と、震災との関係を考えるというのは、いい手段だと思うのです。


日本人であるということは、今回の震災、そしてそれに続く原発を考慮せずに語ることができなくなりました。 


だから、自分ひとりを雇えるぐらいの金額を寄付するぐらい、それぐらい必死こいて支援しないと、被災地の復興と、日本人であることの再構築なんてできないのだと思うのです。 



肌に張り付いてくるような震災のニュースを常に身体で感じながら、そんな批判を自分に向ける、じゃぱんでの毎日なのでした。