社会の窓
好きなことを仕事にするってのは、比較的新しい社会的前提なんじゃないでしょうか。
わたしの両親の世代では、そんなことが出来るのは一握りの人たちで、もくもくと働いていたような気がします。生活のためとか、それが仕事だから、とか。
料理好きからブログを始めて料理教室をするとか、いろんな形で新しい起業的な方たちがたくさんいて、いろんなブログを拝見してたらすばらしいなぁと思うのです。
わたしも意図的ではないのですけど(すいません、相変わらずゆるい人生の展開で)、好きなことを仕事にすることが出来た幸せものなので、好きなことを仕事にしようと頑張ってるひとは応援してあげたいと思うのです。
んなことをちらっと考えてたら(仕事しろ? ぶっ)、この好きなことと仕事をつなげるのって、好きなことじゃないとやりたくないって裏面もあるんじゃないかと。
こんな事いうとほんと、あたしもオバサンになったわねーと思うのだけれど、最近の若い子は『こんなことあたしがやるべきでない』とかいかに仕事先が自分の(かくれた)才能とか能力とかをわかって使いこなせてないか、みたいな態度があると思うんです。(ちがうかな?)
これは『好きなこと・仕事』が社会的美徳として市民権を得て居座っちゃったとき、『好きになる』努力とか過程っつーのがすっぽり忘れられちゃったんじゃないかと思うんです。
言い方を帰れば、『好き』っつーのは、事前に存在してることというのは少ないのではないでしょうか。
たとえば、大学受験で勉強しているとき、Biribiは『あ、あたし勉強きらいじゃないんだ』って初めて思ったのです。
じゃあその後喜んで受験勉強したかっつーとそんなことはなく、大学では遊びほうけたわけで。
大学院行って、仕事初めて、なんだか気がついたらはっきりと、『あたし勉強するのすきなんよ』って素直に言える今に至るという感じなのです。
だから、前の世代の人たちもとりあえず働き始めて、その中で好きな気持ちを培養しながら生きて行ったんじゃないのかなぁ。
『好きなことを追求しなさい』ってなんだか聞こえはいいけれど、その『好き』の育て方とか、発芽させ方とか、探すことのできる過程とか余裕って、いまの日本の社会にはどこにあるんだろう?
大学院で『あたしはあんまり頭はよくないんだ』って痛感して、でも続けていたら、『おぉ あたしはアイディアを出すのはめっちゃクリエイティブなんだ! それを一まとまりにするのはまだ下手なんだ』ってことがわかって、それでも家族を養わなきゃいけないし(なんせ大黒柱なもんで)、なんだかんだで続けていってたら『授業するの嫌いじゃないかも』って思えてきたりするようになったのです。
だから、何かを好きになる努力というか、やらなきゃいけないことを続けていってたら、そのうち嫌いじゃなくなるんじゃないか、と思うんですけどね。そんな拘束力みたいなのが、社会では薄くなってきているのかな?
んー ちっともまとまってませんね(笑)
とりあえず、仕事にもどります ぶっ
生徒のポートフォーリオの評価も、やってると、あー こういう風に生徒と会話するの嫌いじゃないかもーって錯覚(笑)に陥るのよね。
錯覚は現実への種かもよ。