さかこれからCafettoへ出かけて勉強するわよん♪、というまさにそのタイミングでなった電話。東京にいる友人から。彼から電話がかかってくると長くなるのが難点。ご多分に漏れず今回も2時間ほど。電話中にルームメートが帰ってきて、後で彼女が言うには: 

”You sound very different when you speak in Japanese. Your voice is different. It sounds really soft and nice." 

・・・ううぅむ。実はこれ、彼女から言われるのが初めてじゃない。

    きっと、英語だと、やっぱり何年たっても付け焼刃的だし(Going Native的に勘違いしている人もたくさんいるけど)やっぱりある一定の疎外感みたいなものがまとわりつくんだな。 言葉を道具として、そして自分の身体の一部として使うときに力加減がうまくいかなくって、どうしても一定の、不足じゃなくて、excessが生まれるんだろうな。そしてそのexcessは意識以外の自分の一部を指摘してるから、ある意味、考えさせられるんだろうな。(すいません、話が抽象的になっちゃって。) 

    えっと、具体的にたとえると、かばばさんという方のブログで「格好付けで使った挙げ句間違っている英語」の見苦しさの話から日本語の話をすこしされています((http://d.hatena.ne.jp/kababa/20050607))。英語を使ってるとき、本人は「なにげに」とか「自然に」使っているつもり、または、場合でも、その言葉を丁寧に扱うことのできる人、またはその言葉が身体の一部になっている人には、「かっこつけ」な態度とか、その人の人格とか、その背景に対する姿勢みたいなのが、よく見えるんだと思います。かばばさんの日記からも、もちろんこの話は英語に限ったことではないのは明らかです。

    私に「うぅむ」と言わせた今日のルームメートの言葉は、日本語を話している私ではなく、英語を話している私を的確にあらわしていると思うんです。それは私のinsecurityだとか、arroganceだとか、簡単に一定の特徴に煮詰めることはできないと思うんです。が、英語で話すときの言葉のスタイルをちゃんと考えてみると、私の言葉はたいてい明確で、articulateで、preciseで、それを相手にも望んでるところがある。それは、私の意図を超えた部分で、言葉をつかう私の力加減のズレを雄弁に語ってるんだと思うんです。(ちっとも具体的になってない?すいません・・・)

    そのズレが外国人であることなんだなぁ、とさいきん感じています。そして、違った感覚と種類だけれども、その「ズレ」というか、言葉の「すべり」みたいなのは日本語でも同じようにあるから、その感覚を日記を書くことを通して積極的に感じてみたいなぁと思ったり。

    ところどころにある英単語は、えっと、怠惰なわたしの性格が前面にでた結果です。カッコつけのつもりはないんです。(ほんとにないんですよぉ〜  ←だれに訴えてますか、あたし?)できるだけ、英単語を使うのをさけたいんだけど、今はこれでせいいっぱい。

    あ、電話代?もちろん友達もちです♪ もつものは金持ちの友なり。